2023年2月6日
ベトナム アジア

江戸時代の商人の墓がベトナムに?2つの国をつなぐ歴史とは

「江戸時代の日本の貿易商人、ここに眠る」

墓石の近くには、こう書かれていました。

ただ、この墓があるのは、日本ではなくベトナムの古都ホイアン。

いったいなぜ江戸時代の日本人の墓がベトナムに?

調べてみると、2つの国をつなぐ歴史が見えてきました。

(ハノイ支局長 鈴木康太)

ベトナムに日本人の墓?

「ベトナムに日本人の墓がある。そして、その墓守をしているベトナムの人たちがいるらしい」

ある日、ベトナムの知人が教えてくれた1つの情報。

「いったいどういうことなんだろう」と疑問がわき、その墓を取材せずにはいられなくなりました。

向かったのは、ベトナム中部の古都ホイアン。

最近では日本人からも人気の高いビーチリゾート・ダナンから車で1時間ほど走ったところにある町です。

ベトナム戦争の戦禍を免れた、その古い町並みはユネスコの世界文化遺産に登録されています。

古都ホイアンの町並み

ここに江戸時代の日本人の墓が?

半信半疑のまま、事前のリサーチで得た情報を元に、その墓があるとされる場所に向かいました。

田んぼの中にたたずむ墓

ホイアンの中心部から車で10分ほど進むと、辺り一面に広がっていたのは広大な田んぼ。水牛や鳥たちがくつろぐ、のどかな風景が広がっていました。

しかし、目を凝らすとそこには石碑のようなものが。それが探していた墓だったのです。

墓石の近くには、文字が刻まれています。しかも、日本語で。

「1647年日本の貿易商人谷弥次郎兵衛ここに眠る。言い伝えによれば、彼は江戸幕府の外国貿易禁止令に従って日本に帰国する事になったが、彼はホイアンの恋人に会いたくてホイアンに戻ろうとして倒れた。この彼の墓は母国の方向、北東10度を向いている」

墓石に書かれた日本人の名前は、谷弥次郎兵衛。この人物に関する情報はこれ以上わかりませんでしたが、調べてみると、当時、同じようにホイアンにいた日本人は少なくなかったようです。

谷弥次郎兵衛とアルファベットで書かれた墓石

実は16世紀から17世紀初めにかけての朱印船貿易の時代、ホイアンは国際的な貿易都市でした。このため、ホイアンには多くの日本人商人たちが訪れ、こうした人たちが暮らした“日本人街”もあったと言われています。

しかし、江戸幕府が鎖国令を出すと、ほとんどの日本人は帰国を余儀なくされ、いつしか“日本人街”も姿を消したということです。

日本人の墓を守る人がいる?

墓を訪れて気になったのは、その周辺がずいぶんきれいに保たれていることでした。田んぼの中にぽつんとあるにも関わらず、雑草は少なく手入れが行き届いているように見えました。

もしや、墓守をしている人が?

気になって、さっそく地元の遺跡保存センターに聞いてみると、ある男性が墓守をしていると教えてくれました。

その男性はグエン・ディン・フンさん(56)といいました。建築関係の仕事をしていたフンさん。

墓の手入れをするグエン・ディン・フンさん

20年前、知人から「放置されて荒れ放題の墓がある」という話を聞き、その存在を知ったのがこの谷さんの墓でした。町役場などに聞くなどして調べてみると、日本人の墓だとわかったのだそう。

当時は、全く手入れなどされておらず、雑草が生い茂っていた墓。フンさんは、誰かに言われるわけでもなく、自然と墓の掃除や手入れを始めたのだといいます。

今も毎月、墓参りをするのに合わせて手入れをしているというフンさん。墓守を続ける理由について、次のように話しました。

「日本人とベトナム人はお互いに好感を持っています。また、日本人はベトナムに対して多くの貢献をしてくれています。だから、私はこの日本人のお墓の世話をしているのです。私が老いて弱ったら、子どもたちにはこう伝えるつもりです。『この日本人のお墓をきれいにしなさい。頻繁にお香を焚いて温かくしなさい』と」

日本人の墓はほかにも…

取材を続けていると、近くには別の日本人の墓があることがわかりました。

さっそくその場所に向かうと、その墓は住宅が密集する地域の、ある民家の庭にありました。

「蕃二郎の墓」

墓石の近くには、「1665年にこの地に永眠した日本人商人の蕃二郎の墓」と書かれていて、この家に住むベトナム人の家族が代々、墓守を続けてきているのだといいます。

「この墓に埋葬された日本人は、この土地で亡くなったから身寄りがありません。寂しくならないように私が墓守をしているんです。私がいなくなったとしても、子どもや孫たちが手入れをし続けてくれるでしょう」(「蕃二郎の墓」を手入れするズオン・ティ・サウさん(67)女性)

墓に手を合わせるグエン・ティ・サンさん

「私が生まれた時から、この墓は私の家の庭にありました。祖父、父、そして今は私の母が、丁寧に手入れをしているのを見てきました。だから私もそうしたいと思います。私の親戚ではありませんが、彼は私たちの庭にいますし、日本から遠く離れて訪れる親戚もいないのですから」(サウさんの娘、グエン・ティ・サンさん(41))

墓守をしている人たちは、みな、遠く離れたところからやってきた日本人の墓を、自分たちの祖先たちの墓と同じように、墓守をしていました。

でも、いったいなぜ?

日本人としては、江戸時代の日本人の墓が、今でも丁寧に墓守されていることに、感謝の気持ちしかありません。

でも、なぜホイアンに住むベトナムの人たちは、こんなに親しみを持って、日本人の墓の手入れをしてくれているのでしょうか?

その背景を探ろうと、ホイアンの歴史に詳しく文化財の保護を続けるファム・フー・ゴックさん(ホイアン市遺跡保存センター センター長)に話を聞かせてもらいました。

ゴックさんによると、日本の江戸時代、日本からの朱印船でホイアンに滞在した日本人の中には、ホイアンに暮らすベトナム人女性と結婚した人たちもいたそうです。

現在のホイアン

しかし、谷弥次郎兵衛の墓石の近くに刻まれていたように、鎖国令が出されると多くの日本人が日本への帰国を余儀なくされましたが、中にはベトナムに残り、そのまま亡くなった人もいるということです。

また、当時は、日本人商人たちは、ホイアンの町に今も残る建物の建築に対して、援助や寄付を行い、日本とベトナムの貿易を促進し、良好な両国関係に貢献していたのだそうです。

時は進み、ベトナムと日本は1973年に外交関係を樹立。その後、経済面をはじめとして緊密な関係を構築しました。

こうした歴史を背景にして、ホイアンに残る日本人の墓は、両国の文化・経済面の協力・交流のシンボルになっているということです。

ホイアン市遺跡保存センター ファム・フー・ゴック センター長

「ベトナム戦争が終わり、ベトナムに平和が戻った1980年代以降、文化遺産の保護に関して多くの困難に直面していました。そんな時、日本は、専門家を派遣して協力してくれました。今もこの協力関係は続いていて、ますます緊密になっています」
 
「こうしたこととは別に、日本人の墓の近くに住んでいる人たちは、『墓守は自分たちの責任である』と考えて、外国人の墓であったとしても、墓が寒くなったり孤独になったりしないよう手入れしているのです。ただ、この背景には、互いに支え合ってきた両国関係、互いに対する“尊い感情”から生まれる、日本への感謝の気持ちがあると思っています」

“尊い感情”から生まれるもの

取材を終えて、印象に残っていることがあります。

「蕃二郎の墓」を取材している時のこと。その家に暮らす9歳の男の子に、墓についてどう感じているかと尋ねてみました。すると、はにかみながらも次のように答えてくれました。

「字が読めるようになって、日本人のお墓だと初めてわかりました。なぜベトナムに、日本人のお墓があるのか、とても不思議に思います。でも、祖母や母がふだんからお墓の手入れをしているのを見ているから、僕もいつか手入れしてみようと思っています」

日本とベトナムが外交関係を結んだのは50年前。

ただ、両国のつながりは、そのはるか昔、400年前から交流が続き、ホイアンの町では人知れず、その交流が“草の根レベル”で守られてきていました。

そして、9歳の男の子が語ってくれたように、その交流が今後も続いていくと思うと、互いに対する“尊い感情”から生まれる循環に、私も何かの形で関わりたいと強く思いました。

今も続く日本人の墓の手入れ

国際ニュース

国際ニュースランキング

    特集一覧へ戻る
    トップページへ戻る