#あちこちのすずさん
神戸市垂水区の宇津原(うつはら)宏枝さん(52)から今夏、神戸新聞にこんな内容のメールが届きました。〈母はかなり弱ってきておりますが、ポーランド人夫婦にまつわる戦争の話など、後世に伝えたいことがたくさんあります。母がまだ話せるうちに聞いていただければ〉…。神戸市内の高齢者介護施設で暮らす清木(せいき)美和子さん(91)に会いに行きました。(有冨晴貴)
職員に車いすを押され、施設の応接室に姿を見せた清木さん。机には、娘の宇津原さんが持参してくれた黄ばんだ紙が置いてあった。太平洋戦争の開戦前、ロサンゼルスで働いていた父と家族が交わした手紙だ。
「父はとても変わった人でした。でも、今から思えば先進的だったのかもしれません」。清木さんは懐かしそうに語り始めた。
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父の村井禄楼(ろくろう)さんは、現在の神戸市中央区に事務所を構える弁護士だった。専門は海事。米国勤務の経験があり、英語も堪能だった。
太平洋戦争末期、日本が優勢かのように報じるラジオに向かって「何を抜かすか!」と怒鳴りつけ、日本の降伏を知っても「これでやっと終戦や」と、こっそり喜んでいた姿を覚えている。
戦時中、父の事務所や書庫は常時、書生や生活に困った人に貸していた。
清木さんが10代の頃、ポーランドからやって来たユダヤ人夫妻が、そこで暮らし始めた。事務所のドアに掛けられていた「attorney at law(弁護士)」の看板を見たのがきっかけという。清木さんは「今度は外国の人か」と驚くこともなかった。
英語で交わされる父と夫婦の会話はさっぱり分からなかったが、「書庫に運び込んだ布団に戸惑いながら、2人は異文化になじもうとしていた。とても礼儀正しい人だと思った」と振り返る。
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その夫婦が、外交官杉原千畝(ちうね)(1900~86年)が40年に発行した「命のビザ」でナチスの迫害から日本に逃れてきたユダヤ難民だと知ったのは、ずっと後のことだ。
命のビザで日本を経由したユダヤ人は数千人とされ、一時、神戸に身を寄せた人も多かったという。
清木さんによると、本国の方針に反していた杉原の行為をよく思わない世論が当時、神戸にもあったという。一方で「港町だった神戸は外国人が多く、差別意識はほとんどなかったと思う。困っている人には、分け隔てなく手を差し伸べる空気があった」と語る。
滞在は1カ月ほどだっただろうか。ユダヤ人夫妻は神戸から新天地へと旅立った。
父親と夫妻を撮った写真が残された。その裏には、夫婦の名前とともに「最高の感謝の気持ちを表します」と英語でつづられていた。
戦後、夫婦の名前と「命のビザ」のリストに載っていた名前が一致した。
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「父は常々、2人の無事を祈っていたが、どこに行ったかは知らなかったようです。父は当たり前のことをしただけだと思っていたから、わざわざ聞かなかったんでしょうね」
遠い記憶を淡々と語っていた清木さんの頬が一瞬、緩んだ。
2021/9/3- ナチスから逃れたユダヤ難民、父は住居を与えた 「命のビザ」で来日の夫婦に #あちこちのすずさん
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