#あちこちのすずさん
太平洋戦争中、日本の統治下にあった朝鮮半島で暮らした人々がいました。日本が敗戦後、旧ソ連軍に占領された場所から、彼らは命がけで脱出しました。兵庫県姫路市の長田信子さん(83)もその一人。孫の近田優美さん(26)を通して当時の体験を寄せてくれました。(小谷千穂)
〈今もよく、あの頃のつらい光景を夢に見ます。いつも同じ場所、同じ人が出てきます。山の中で、前には大きなお釜を背負った若い青年の背中。北緯38度線より南へ向かう途中です。8歳の私はみんなとはぐれないよう、そのお兄ちゃんのお釜を目印に、傷だらけのままで進みました〉
長田さんの父親は、養父市の旧「明延鉱山」で働いていた。1939年、現在の北朝鮮にある咸興市にある社宅に転勤。長田さんは当時2歳だった。
咸興は多くの日本人が移住し、警察官や郵便局員らも海を渡り、ひとつの町になっていたという。
家には「お手伝いさん」がおり、生活は豊かだった。日本から移り住んだ子どもだけが通う国民学校に通い、友達と遊び回り、ときには砂糖工場に忍び込むいたずらもした。一方、現地の人々の暮らしは貧しい様子だったという。長田さんは幼いながら「日本人はいばっている」と感じた。
◆
日常が一変したのは45年8月、小学2年のとき。父が働く鉱山に社員の家族全員が集められ、終戦を知らせるラジオ放送を聞いた。
大人たちが泣き崩れ、長田さんは何が起きたのか理解できなかったという。
これ以上、ここにいたら「ソ連軍の捕虜になってしまう」と、着の身着のまま、社員の家族らみんなで町を出た。
一行はお金を出し合い、「闇船」と呼ばれる密航船で日本を目指した。だが嵐に巻き込まれて遭難し、朝鮮半島中部のまちに流れ着いた。混乱のなかで4歳の妹がはしかになり、命を落とした。
遺体はリンゴの箱に入れて埋葬した。悲しみに浸る余裕もなく、日本への船があった旧京城府(現ソウル)へ陸路で急いだ。
◆
ソ連軍に見つからないよう、山の中を歩いた。
父が服に縫い付けていたお金を現地の人に手渡し、道案内を頼んだ。食料は農家から買い、煙に気付かれないよう夜になってから火をおこし、青年が運んでいたお釜で調理した。
約10日間、約120キロを必死で歩いた。
「足手まといになる」と現地で売られた子どももいた。長田さんは「捨てられないように」と、ズボンの尻部がやぶけても泣き言をいわず、葉っぱの山を滑るなどしてついていった。すぐ前にいた青年を見失わないように。
「覚えてるのは背負っていた大きなお釜だけ。顔や名前は覚えていません」
ついに北緯38度線を越えた。うれし涙を流し、大人たちと一緒に童謡「赤とんぼ」を大声で歌った。
◆
ようやく着いた京城で米軍の捕虜となった。船を待つため泊まっていた寺では、毎晩のように違う若い女性が長田さんを抱きしめて眠った。「他の人の子になったんかな」と不安で寝られなかったが、女性が米兵に襲われないため、子連れのふりをしていたと後で知った。女性は丸坊主にしたり、兵隊の服で寝たりして、自分の身を守っていた。
山口県の港に着いたのは11月。終戦から3カ月がたっていた。日本の小学校では、朝鮮からの引き揚げ者というだけでいじめられたが、「両親が私の手を放さず連れ帰ってくれたおかげで生きている」と、歯を食いしばった。
◆
孫の近田さんには「ばあちゃんが帰れてなかったら、優美ちゃんはいなかったんやで」と、命の重みを伝えてきた。
実際、現地には多くの残留孤児がいた。脱出の途中で亡くなった人も多い。戦争によって、国策によって、多くの国民の命が軽んじられた。「絶対に許しません」と声を震わせた。
年を重ね、「この経験を無駄にはしたくない。平和しか知らない人に、戦争がなくなるために知ってほしい」と今回、初めて経験を文章にまとめた。
「長年抱えてたものが、外に出たんですかね」
最近、山越えの夢は見なくなったという。
2021/8/24- ナチスから逃れたユダヤ難民、父は住居を与えた 「命のビザ」で来日の夫婦に #あちこちのすずさん
- 8歳、命懸けで目指した38度線 ソ連軍から身を隠し、山越え120キロ #あちこちのすずさん
- 「あと10日終戦が早ければ」戦争への無念、やり場のない怒りを「自分史」に #あちこちのすずさん
- わずかな食料14人で分けた ひとり親の父出征、伯父に引き取られ #あちこちのすずさん
- 低空で飛ぶヘリの音「今も怖い」 77年たっても消えない心の傷 #あちこちのすずさん