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#あちこちのすずさん

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灘五郷の一つ「今津酒造」の娘に生まれ、大阪に嫁ぐまで西宮で過ごした吉川禮子さん(前列左から3人目)=1935年(提供)
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灘五郷の一つ「今津酒造」の娘に生まれ、大阪に嫁ぐまで西宮で過ごした吉川禮子さん(前列左から3人目)=1935年(提供)
1945年8月、空襲直後の市街地の様子(白鹿記念酒造博物館提供)
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1945年8月、空襲直後の市街地の様子(白鹿記念酒造博物館提供)
吉川禮子さん
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吉川禮子さん

 1945(昭和20)年8月5日の深夜から6日未明にかけてあった「阪神大空襲」を経験した吉川禮子(あやこ)さん(93)=大阪府八尾市=は45年前、戦時下の暮らしや思いを原稿用紙61枚の「自分史」にしたためた。今年に入って孫の米田友希さん(37)=兵庫県西宮市=らが見つけ「戦争体験談」として西宮市に寄稿した。学校にも戦争の影が迫り、空襲で家の酒蔵も焼けた中で、戦争への無念、やり場のない怒りをつづっている。(久保田麻依子)

 吉川さんは6人きょうだいの5番目に生まれた。家は西宮市今津地区で江戸時代から続く造り酒屋。44(昭和19)年には戦時下の企業整理で三つの酒造家と合併して「今津酒造」を立ち上げ、灘五郷の一つとしての地位を確立していた。

 ◆酒造りが始まる秋になると、丹波の奥から精米所の人や蔵の人がやってきた。1月下旬には絞った新酒が「初揚げ」され、祝い事の歌も聞こえる。そうはいっても酒蔵の入り口は『女人禁制』の札がかかっていたから、父について見に行くくらいである。

 戦争は吉川さんの暮らしにも近づいてきた。小学3年生だった37(昭和12)年には盧溝橋事件を発端に日中戦争が始まり、友人の父親が戦地へ。子どもたちも「少国民」と呼ばれ、通っていた今津小学校でも長い歌詞の軍歌を覚えた。

 ◆私たちの学校生活は戦争と共にあった。作文の時間には兵隊さんに励ましのお便りを書いた。年を追うたび、戦地で亡くなる兵隊さんが多くなり、その時には授業を止めて全校生が道の両側に整列して英霊を出迎えた。

 神戸女学院専門部(現・神戸女学院大)に通っていた45(昭和20)年の8月5日深夜、阪神大空襲が西宮市-神戸市東灘区の一帯を襲った。幸い家族は亡くならなかったが、吉川さんの家や酒蔵は全焼。尼崎市の武庫之荘の親族の家に身を寄せることになった。

 ◆先祖伝来の家や酒蔵、土蔵もすべて焼失した。今津は酒蔵が多いので、アルコールや太い棟木、石炭などが燃えて温度が高かったのだろう。火の粉をくぐり抜けて北へ逃げたが、川に飛び込んだところに爆弾が直撃して、死んだ人も多かった。

 当時の西宮市域の約2割が焼失して485人が亡くなり、武庫川の西側にあった旧鳴尾村(1951年に西宮市に合併)でも188人、芦屋市でも89人が死亡したとされる。

 ◆8月15日は、朝から快晴だった。空襲後は黒い雨が降ったので、この青空は一層印象深かった。終戦を告げる玉音放送を聞き、あと10日終戦が早ければ…という声が町にあふれていた。訓練は何の役にも立たず、必死に戦ってきたことはむくわれることなく、むなしさと腹立たしさでいっぱいだった。

 米田さんらは吉川さんが記した自分史の存在を知ってはいたが、長らく関心を寄せることがなかった。しかし、2019年に吉川さんが倒れ、高齢者施設に入所したのをきっかけに読むと詳細な記述に驚き、孫9人で協力して電子化することにした。

 「子どもたちの平和授業に活用してほしい」と西宮市が募集する戦争体験談に原稿を寄せ、今月中旬にホームページに掲載された。

 新型コロナの影響で親族の面会もままならないが、米田さんは「戦争の話を直接聞ける残された機会は少ない。祖母の思いを引き継ぎ、平和のバトンをつないでいきたい」と語った。

2021/8/22
 

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