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#あちこちのすずさん

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戦時中の経験を語る藤本吉江さん=神戸市東灘区
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戦時中の経験を語る藤本吉江さん=神戸市東灘区

 太平洋戦争中、中国大陸やアジア・太平洋で激戦が繰り広げられる一方、内地では、政府が統制を強め、国民の多くが戦争遂行を熱狂的に支持する異常な社会を懸命に生き抜いた人たちがいた。神戸市東灘区に生まれ育ち、今も同区で暮らす藤本吉江さん(85)もその一人。幼い目に焼き付けた戦時の日常や戦禍の光景を胸に「戦争が悲劇ということすら分かってなかった。今なら言える。戦争は絶対にしちゃ駄目」と訴える。(小谷千穂)

 1935(昭和10)年生まれの藤本さんは6人きょうだいの下から2番目。人一倍わんぱくな子どもだったという。幼い頃、住んでいた深江のあたりは「武庫郡本庄村」だった。砂浜があって、漁業が盛ん。父は魚を売る業者として生計を立てていた。

 37年に盧溝橋事件が起き、日中戦争が始まったが、軍靴の足音はまだ遠かった。夏になると、友人と下着のまま海で泳いだ。砂まみれになって突堤でフナムシを追いかけた。スケート(今のキックスケーター)やかくれんぼ、缶蹴り-。活発に遊んで過ごした。

 6歳の冬、太平洋戦争が始まった。だが、日々は変わらなかった。違ったのは、頻繁に空襲警報が鳴ること。音を聞けば、すぐに家の床下にある防空壕(ごう)へ走った。本庄国民学校(今の小学校)に入学すると、授業では「兵隊さん」を敬う詩や歌を習った。朝礼では先頭に立って「1年〇組、異常ありません!」と報告する役だった。

 45年5月11日、いつもと同じサイレンで、家にいた姉と妹、母親と防空壕に隠れた。父は近所のお年寄りや女性に注意を呼び掛けてから入った。1畳半に4人。じっと潜んでいると「ブォーン」と空から飛行機の音がした。次いで「バタバタバタ」と爆風で家のあらゆる物が壊れる音。耳や目を手でふさいで「お母ちゃん死んだらあかん」と泣き叫んだ。

 4人は無事だったが、すぐ近くに住む祖母と叔母が亡くなった。頭や腹に傷を負った2人の遺体を見て、吉江さんは「この敵(かたき)はとったるからな」と声を振り絞ったという。日本が負けるなんて全く思っていなかった。困ったら「神風」が吹いて、助けてくれると大人から聞いていたから。

 終戦は人づてに聞いた。「神風吹かんかったんか」と驚くとともに、初めて現実に戻された。

 今、振り返れば、親族の遺体を見ても悲しむことなく奮起する自分は「異常だった。軍国少女に仕上げられていた」。自分が生き延びるのに精いっぱいで、弱い者を犠牲にする時代。「人間本来の優しさがどっかに飛んでいた」と語る。

     ◆

 戦後は、いとこ3人と同居し、大家族で少ない食料を分けて命をつないだ。「『ひもじい』という言葉の意味は、説明しても今の子には伝わらない」と当時を思い返す。

 中卒で働きに出て、努力を重ねてタイピストとして独立。地域の自治会長を務めるなど、これまで忙しく過ごしてきた。

 博物館でB29爆撃機の音を聞くと、今でも動けなくなるなど、トラウマ(心的外傷)は残るが、近隣の小学校で語り部を続ける。自分の意思とは関係なく、一部の人間によって引き起こされた戦争が、多くの人間を変えてしまった。「自分の命を守るために勉強しなさい。過去を知って、前に進め」と説く。同じ過ちを繰り返さないでとの願いを込めて。

2021/6/29
 

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