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連載・特集

緑地帯 熊原康博 地歴ウォークはやめられない⑤

 日本中を歩いて日本地図を作った伊能忠敬は、海岸線だけでなく内陸にも足をのばしている。ある時、私は、忠敬が文化10(1813)年に広島城下から吉舎村(現三次市)まで測量していたことに気付いた。忠敬は、道中の村名、地名、神社、橋名などを日記に詳細に記していたので、日記の記述をもとにルートを再現できると考えた。さらに明治時代の地図や江戸時代の絵地図を見比べて、現在の地図上でルートを推定した。この予習をした後、推定したルートを実際に歩いてみた。

 忠敬は、別府(べふ)村(現東広島市志和町)で、「右へ曲がる小道がここより長崎街道の四日市三里」と日記に書いている。別府には野道の分岐に石造りの道しるべが今も残っており、「右 四日市」と刻まれている。四日市とは、西国街道(長崎街道)沿いの宿場町(現在の西条駅周辺)の旧名であり、ここが日記に書かれた道の分岐であると特定できる。地元の歴史に詳しい吉本正就さんらと懇意になり、当時の街道の位置を教えていただいた。このようにして確定したルートはいまや小道や野道となっている。しかし、このルートこそが江戸時代までの主たる街道であり、今では忘れ去られてしまっている。

 志和中学校で出張講義をした際、伊能忠敬が中学校脇の道を歩いて測量していたことを話すと、生徒は驚いていた。教科書に載る歴史上の人物が身近なところを歩いていたとは思っていなかったのだ。地図を通して過去と現在を結びつける作業は面白いし、自分が暮らす郷土を誇りに感じる活動にもつながると思っている。 (広島大大学院准教授=広島市)

(2022年7月30日朝刊掲載)

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