団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になる2025年。高齢化が進む中で不可欠なのが「難聴対策」だ。良好な「聞こえ」を維持することは、QOL(生活の質)を高めるだけでなく、認知症リスクを軽減し医療費の抑制にもつながる。

国際アルツハイマー病協会は2020年、認知症のリスクを高める因子の中で最大のものが難聴で、これを避けられれば認知症の発症を8%抑えられるとThe Lancetで報告した。難聴の制御こそが、認知症対策につながるというわけだ。

慶應義塾大学の小川郁(おがわ・かおる)名誉教授は、「難聴克服のために重要なアプローチには2つある」という。「1つは、加齢が原因で起こる感音難聴の病態を解明し『創薬』につなげること。もう1つは、適切な時期に補聴器を適切に使用し、音による脳への刺激を絶やさないための『聴覚リハビリテーション』とそれを普及するためのネットワークの延伸だ。それには、アカデミアや医療機関はもちろんのこと、製薬企業、エレクトロニクス企業も参加するオールジャパンで難聴対策ビジネスを拡大することが重要だ」と訴える。

慶應義塾大学名誉教授、オトリンク代表取締役、オトクリニック東京院長の小川郁氏
慶應義塾大学名誉教授、オトリンク代表取締役、オトクリニック東京院長の小川郁氏
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iPS細胞技術で感音難聴の病態を解明し創薬につなげる

 そもそもヒトが音を感じるのは、空気の振動を内耳で電気信号に変えて脳に伝わるから。中でも重要な役割を果たしているのが内耳の中にある蝸牛(かぎゅう)というかたつむりのような形をした器官だ。蝸牛内部には「有毛細胞」が並んでおり、これが音の振動を受けて電気信号に変換し、脳に続く神経細胞伝える。難聴には大きく2つあり、1つが音が伝わる経路に異常があり音が聞こえにくくなる「伝音難聴」で、もう1つが有毛細胞が騒音や加齢の影響で傷つき壊れるために音を感じ取り難くなる「感音難聴」だ。

 小川氏は「今まで感音難聴に有効な新薬は1つも登場していない」と指摘する。その理由は感音難聴の病態を詳しく知ることが難しいからだ。がんであれば、組織の一部を「生検(せいけん)」という手法で取り出して研究し創薬につなげることができるが、有毛細胞を取り出すと患者の聴力は失われてしまうため、そうしたアプローチができなかった。

 ところが、最近になってiPS細胞技術を利用した「バーチャル生検」で、難聴の病態を明らかにすることが可能になりつつある。「若くして感音難聴が進行する人の中には、先天性難聴であるペンドレット症候群(Pendred症候群)のように、何らかの遺伝的特徴があることが多い。血液中の細胞から作られたiPS細胞を内耳の有毛細胞に分化・誘導すれば、試験管の中で感音難聴の病態や遺伝的背景を研究することができる」と小川氏は説明する。