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ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <1> 米軍返還資料

標本 急性症状の痕跡

劣化の危機 募る焦り

 広島逓信病院(現広島市中区)そばに建つ急ごしらえの板小屋で、広島医学専門学校(現広島大医学部)教授だった玉川忠太さんが原爆犠牲者の病理解剖に当たっている。1945年10月の写真だ。

 当時の様子を、医学生として玉川さんの解剖に立ち会った杉原芳夫さんが手記「病理学者の怒り」につづっている。患者であふれる病棟から、9月20日に妊娠8カ月の早産児、翌朝は39歳の母親の遺体が相次いで運び込まれた。「さあ、お母ちゃんにさようならをしなさい」―。小学3年ほどの男児を諭す父親の目に、涙があふれていた。

 「憎しみを押(おさ)えきれなかった」。手記の中で杉原さんが怒りの矛先を向けた米国は45年秋、占領下の日本で原爆犠牲者の病理標本など大量の資料を接収した。73年に返還され、広島分は広島大原爆放射線医科学研究所(原医研、南区)が保管する。

 返還時に原医研が作成した報告書のページを繰ると、手記にある母子と、年齢や解剖日、解剖場所まで一致する名前が一覧表に並んでいた。2人の臓器から作られた標本は、原爆投下国に持ち出されていた。

スライド669人分

 「米軍返還資料」の広島分は約1万1千点。669人分ある内臓や骨髄のスライドの中で、特に被爆から間もない45年末までに解剖された遺体の標本は、類を見ない資料という。この母子を含め105人分、約4千枚。原医研付属被ばく資料調査解析部の杉原清香助教(45)は49人分の骨髄標本を分析し、被爆後3~4週目の死亡者に血液を正常に作れない急性症状が目立つことを、あらためて確かめた。

 研究を進める中で危機感を募らせているのが、資料の劣化だ。「まだ見えるうちに画像を残さないと…。被爆当時の診断を裏付ける証拠が消えてしまう」

 顕微鏡で拡大した骨髄標本のスライドを見せてもらった。本来、血小板のもとになる巨核球などが試薬で青紫にくっきり染まる。しかし色は薄くなり、周囲の組織と区別が付きにくい。

 原医研は、標本のデジタル画像化を目指している。専用スキャナーは、最低で数百万円。2017年度、被爆関連の多様な所蔵資料を含めたアーカイブ化の予算を文科省を通じて概算要求したが、通らなかった。

 田代聡所長(58)は「早期に成果が出る研究でなければ予算を認められにくいのが、日本の現状」と嘆く。インターネットで寄付を募るクラウドファンディングに活路を求めるという。

命刻まれた一枚

 一枚のスライドには、名前があり家族がいた犠牲者の命が刻まれている。

 米軍は、広島の犠牲者に「25」で始まる通し番号を付け、資料を分類した。1973年に資料が返還されると、広島市はローマ字で記録されていた名前を公開した。うち一つが「259117」の「YUKIMURA Juro」。行村十郎さんの遺族が名乗り出た。

 当時の新聞記事を手掛かりに、記者は遺族を探し当てた。おいの満極(まんごく)日出男さん(85)=京都市=によると、48歳だった行村さんは爆心地から約1キロの薬研堀町(現中区)で妻と営んでいた飲食店で被爆し、下敷きに。妻を助けられず、泣く泣く逃げた。「焼け跡で連日探しても、遺骨は見つからなかったそうです」

 行村さんはその後、体中に紫斑が出て髪も抜け、被爆翌月の9月10日に死去。未知の症状に、なすすべがなかった。満極さんの父らは、京都大調査班から病理解剖への同意を求められると「研究に役立つなら」と応じたという。

 「259117」関係の米軍返還資料は、医学記録とスライド15枚。保存に手を尽くしながら、原爆被害の実態に迫る努力を将来につなぐことが、被爆地、そして被爆国の責務ではないだろうか。(山本祐司、水川恭輔)

(2020年4月7日朝刊掲載)

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